神経内科総合医療センター
13 骨折後の脚長差による跛行のこと
ラジオ放送(1)小林多喜二の骨折と跛行
神経内科の伊藤規絵先生が2024年4月からFMラジオ番組のパーソナリティを務めることになりました。
ラジオ局:RADIOワンダーストレージFMドラマシティ : 77.6MHz
土曜日(月2回) : 11:00 AM ~ (1時間の生放送)
FM電波の届く範囲は限局的ですが、以下の2種のネット配信を行っています。次のアプリを導入することで聴取することが出来ます。オンデマンド配信はありません。
スマホ等 : Listen Radio
パソコン等 : Simul Radio
ラジオ番組(ドクター伊藤の健康百彩)の第1回目(2024/4/6)の放送内容を付します。ラジオ放送で流した楽曲は2次利用できないので、曲を外したものです。伊藤先生はYOUTUBEでも番組内容の発信を始めています。YOUTUBEのタイトルは「ドクター伊藤の歩行と健康」です。
★伊藤規絵先生のYOUTUBE :
https://www.youtube.com/@ドクター伊藤の歩行と健康/videos
(1)小林多喜二の骨折と歩行〜ハスカップは長寿の果実
https://www.youtube.com/watch?v=Zv5gxU7bXHw
(2)小林多喜二の骨折と歩行〜たった5mmの差からくる歩行障害
https://www.youtube.com/watch?v=QrAh0KEjTIo
(3)小林多喜二の骨折と歩行〜姿勢が悪いと起こるマズい事
https://www.youtube.com/watch?v=zxz6UPwv9Zc
★ラジオ音源(約42分:2024/4/6) :
ファイルを小さくするためビットレートを下げたので元の音源より音質低下あり。
さすがに素人2人の1時間生放送は無謀な試みであり、前の週に本番と同じ時間で予行演習を行いました。・・・とは言え、ぎこちなさは否めません。このラジオ番組のためのメモ書きに多少の修正を加えて示します。
苫小牧の菓子屋 「三星」に「よいとまけ」がある。
現在、「日本一食べずらい菓子」として宣伝している。
子供時代の私にとっては 「食べると怒られる菓子」 だった。何故か?
「よいとまけ」は、ハスカップジャムが表面に塗られている。
かつては切れ目がなかった。子供が自分で切りながら食べると、手がベトベトになった。
その手で、あちこち触るので、家じゅうがベトベトになった。
だから、食べると「怒られる菓子」だった。
正月に親に連れられて三星に年始挨拶に行ったことがある。
社長はすでに酒でべろんべろんとなっていた。
膝の上に乗せられて顔中を舐め回された。
三星の菓子で育ったと言っても過言ではない。
子供の頃は超肥満児であり、よく 「息が出来なくなる夢」 をみた。
今考えると、肥満による閉塞性の睡眠時無呼吸症候群だろう。
もともと、この三星は小樽で曽祖父の小林慶義が起こした「小林三星堂」だった。
苫小牧に王子製紙が出来ることになったので、人口増加を見込んで苫小牧に進出した。
小樽には後継店はない。
慶義は弟(末松)の息子(慶義の甥)をパン工場で働かせて学費を支援した。
庁立小樽商業学校と小樽高等商業学校(今の小樽商科大学)。
その慶義の甥が「蟹工船」の小林多喜二。
分かり易い説明としては祖父(太郎)より2歳10ヶ月下(3学年違い)の従弟。
民法第725条:6親等内の血族まで親戚(姻族は3親等迄)らしい。
私はちょうど6親等にあたる。
多喜二の父親(末松)、曽祖父(慶義)は背が高かった
多喜二は背が低い(154センチメートル)。これは母親(せき)の遺伝による。
多喜二は小柄なのに肩で風を切るような、まるで威張ったような歩き方をしていた。
生意気な小僧だと思われていた節がある。
「若い詩人の肖像」によると伊藤整は庁立小樽中学校(今の小樽潮稜高校)に通っていた。
多喜二は色々な雑誌に小説など投稿していたので、ちょっとした有名人だった。
伊藤整は庁立小樽商業学校に登校中の多喜二を観察していた。
伊藤整は汽車通学なので駅から学校までの時間は正確。
今日はここですれ違ったので、家を出る時間が遅かったんだな・・・と。
伊藤整は小樽高等商業学校(今の小樽商大)に入学した。
多喜二の1学年下だった。
小樽高等商業学校では毎年、外国語劇を行っていた。
大正12年にフランス語劇の「青い鳥」で多喜二はヤギの役になった。
伊藤整は青い鳥をプラカードのように掲げる役だった。
この写真がネットに残されている。関東大震災の義捐として行われた。
ここまで小樽高等商業学校の話。
それより前の学校、庁立小樽商業学校3年生の時(満14歳の頃)。
今だと中学3年生の時に鉄棒から落下して右下肢を骨折した。
おそらく不十分な整復でギプスを巻かれた。
右足が短くなり脚長差が生じたはず。どういう歩き方になるか?
右足が短いと骨盤右側が下がるので、歩行時には上半身の揺れが大きい。
そのため跛行(びっこ)が生じる。
それが肩で風を切るような歩き方に見えた。
では、まっすぐ立った姿勢はどうなるか?
右側骨盤が下がると上半身は右に傾く。
バランスをとるために上半身は左に傾く。すなわち右肩が高い姿勢になる
三浦綾子さんは旭川出身、氷点で有名。「母」という小説を書いた。
三浦綾子さんはパーキンソン病であり、自らの闘病記である「難病日記」を書いている。
小説「母」は多喜二の母親(せき)のことを書いたもので、映画にもなった。
母(せき)や弟(三吾)のつぶやきとして「右肩あがりの姿勢」を心配する場面がある。
なぜ「右肩あがりの姿勢」を心配するのか?
多喜二の晩年、当時の非合法組織である共産党に入って地下生活をした。
特高警察に追われる身となった。
右肩上がりの姿勢だと遠目からもはっきり分かるので、すぐに捕まってしまうのではないか・・・という家族の心配だった。
姿勢を保つには首が重要。
魚には首がない。
陸に上がって頭の水平を保つために、いくつかの肋骨が邪魔になった。
これが首になった。
種によって違うが、哺乳類は7つの頸椎がある。
キリンも頸椎は7個で、ひとつひとつが大きい。
キリンは高血圧(人間の基準として)であり収縮期血圧が200~230mmHgもある。
キリンの血圧は何処で測るか?
たとえば腕で測るとき、心臓の高さに腕を持ってくる。
キリンの場合は、尻尾にマンシェットを巻く。
円山動物園のキリン舎には「ハダカデバネズミ」という、かわいそうな名前のネズミがいる。
名前の通り、出っ歯で裸(毛がない)の姿をしている。
ブサ可愛い小動物。
小さい割に寿命がとても長く、蟻や蜂のように女王が集団の全ての子供を産む。
哺乳類としては、近縁のネズミとあわせて唯一の生態を持つ。
蟻や蜂は生まれながらにして女王が決まっている。
ハダカデバネズミの場合は、女王になるために闘争があるらしい。
ちなみに、織田信長が秀吉に付けた愛称は「ハゲネズミ」だった。
多喜二は庁立小樽商業学校と小樽高等商業学校という2つの商業系の学校に行っている。
普通は必要ないはずだが、多喜二は拓銀に就職した翌年、さらに東京商科大学(今の一橋大学)を受験した。
東京に出たいという思いが強かった。
せっかく多喜二の収入が安定したのに、家族は収入面で不安になった。
多喜二は東京に合格発表を見に行ったが、不合格だった。
家に「オチタアンシンスレ」という茶目っ気のある電報を打った。
受験勉強は拓銀に就職した最初の年に行った。
その年は多喜二にとって大変な年だった。
父親(末松さん)が他界した。
苦界から救い出した田口瀧子さんとの出会いがあった。
小樽で「蕎麦屋」と呼ばれていた非公認の売春宿に絶世の美女がいた。
これは広い意味で「曖昧屋」と言う。
瀧子さんは表向きは酌婦として身を売っていた。
貧しさのため満13歳の時に父親に売られた。
小樽で多喜二と出会った時の瀧子さんは満16歳だった。
多喜二は満20歳。
面食いの多喜二は、ひと目ぼれした。
だから、何が何でも合格しようという気はなかったようだ。
ちなみに、ラジオ番組のタイトルは「健康百彩」
百の彩(いろどり)は100歳という意味を掛けている。
新聞によると、瀧子さんは2009年(平成21年)6月19日に亡くなった。
満101歳という長寿だった。
多喜二が地下生活に入る直前、尊敬する志賀直哉の家を訪れて1泊している。
志賀直哉の50歳の誕生日は、多喜二が築地署で虐殺された日(2月20日)にあたる。
志賀直哉は「アンタンたる気持ちになった」と香典を送ってくれた。
志賀直哉の多喜二評:
人間として好感を持っている。
主人持ちである点が小説として弱い。
政治的主張が強すぎるというものであり、プロレタリア文学としてやむを得ないところもあると評している。
1927年(昭和2年)5月20日改造社主催の文芸講演会として北海道に芥川龍之介と里見弴が来た。
クラルテ(拓銀に勤めてから多喜二が主宰した同人誌)の主催で歓迎座談会を開いた。
多喜二は空気が読めないところがあった(=KY)。
主賓の2人のうち、里見弴に「志賀直哉のことばかり」を根掘り葉掘り質問しまくった。
芥川龍之介はポツンとしていたようだ。
東京に帰った2ヶ月後の7月24日に服毒自殺した。
将来に対する只ぼんやりした不安・・・という言葉を残した。
多喜二は小指の1本くらいは背中を押したかも・・・(?)
以下は時間調整用
伊藤整は小樽高等商業学校を卒業後(多喜二の1年後)に、市立小樽中学校に就職した。
伊藤整が通っていたのは「庁立」の小樽中学校であり、就職したのは新設の「市立」小樽中学校。
翌年、多喜二と同じ東京商業学校(今の一橋大学)を受験した。
就職の翌年というところは多喜二と同じ。
対抗心があったかどうかは分からないが、不合格だった。
伊藤整は、あきらめずに、その翌年に再受験して合格した。
1年間は大学を休学として中学校の教員を続けて資金をためた。
そして翌年に入学した。多喜二は再受験しなかった。
多喜二の妹のツギさんは多喜二の一家が小樽に移住する時には乳飲み子だった。
幸田家に嫁いで苫小牧に住んでいた。
よく祖母のところに遊びに来た。
私は「幸田さんのおばさん」と呼んでいた。
「あの時の兄はどうだった、こうだった・・・」とばかり言っていた。
「よっぽどお兄さんが好きなんだな」と思っていたが、兄とは多喜二のことだった。
3歳の時だったので覚えてないが、多喜二のセキさん(多喜二の母)にも会っている。
祖父(太郎)の葬儀に参列した時だった。
文責:小林信義